"人は何のためにいきるのか"を語る
はい、おはようございます😃
朝から早稲田侍です。昼か。笑
今日は圧倒的に答えの無い議題、、、
"人はどこから生まれて何処へむかうのか。"
つまり
"人は何のために生きるのか"
そんなテーマで語りたい。
さて、みなさん、そんなこと考えたことあります?
考えたことがない方は考えた方がいいし、考えてばかりの人はあまり考えない方が良いこのテーマは
"哲学"とカテゴライズされており、
全くこの分野に思考を巡らしていない方は家畜のような人間になっているでしょう。笑
(思考停止して、一時的欲求だけ満たしているという意味で。)
逆に思考しすぎれば京大の哲学研究会のように異常な自殺数を叩き出してしまう結果になりますので呉々もご注意を。
事実僕も高校生の頃学校にも行かず毎日のようにスロットをしていた時(特に負けた時)は気付けばこんな議題命題を脳内に抱えながら生きながらえていました。
かーなーり、鬱っぽかったです。w
さて、そんな高校生の自分がこのテーマに関して出した結論は、"考えてはいけない"でした。
は?どゆこと?ジレンマ?破綻?
はい、破綻というか前提崩しっす。笑
当時の自分は周りの高校生よりも思考力はあり、
唯一解のない議題に最適解を出す能力もそこそこありました。
が、しかし、この議題だけは最適解すらだせず、
ある種 適解として、"考えてはいけない"に辿り着いた。
恐ろしく長く深く暗い道のりだった。
ここからが本題。
では、いまでも同じ考え方か?
答えはNOだ。
今の自分はこの"人は何のために生きるのか"
という議題に対して最適解を出せたと自負している。
人は、"自分が生まれていなかった世界との差分を拡げる為に生きている"と私は結論づけた。
パラレルに世界が展開していて、自分がいない地球、世界があると仮定して、
我々は各々がその世界と現実世界との差分を如何に拡げられるかという部分に生きる意味 意義があると考える。
要するに、いかに人生を通して世界に影響を与えられるか。そこにこそ生きる意味は見出されるだろう。と。
これが分かりやすいまとめ方だろう。
ではここからが重要な部分。
定義づけるのは個人の自由だ。
しかし、最適解すらだせず思考停止していた高校生の頃の自分と今の私で何が違うのか。
ここが非常に重要である。
答えは、、、
インプット総量と思考量
である。
変化が発生したのはこの二つでMECEに打ち解けているであろう。
特に主張なぞは意識していなかったが、
強いて最後に主張をするかは、
インプットと思考をせよ。
ってことですかね。
疲れましたね。 まあ、今日も頑張りましょう!!
では、また明日!!